天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

人に喜びを与えるために立てたコムヨシの目標って?

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どうも、2018年バージョンのコムヨシです。

ブログのアイコンが変わったの気づきましたか?

実は最近、LINEスタンプ作りが姉弟の中でちょっとしたブームになっています。

ボクも前々から興味があったんですが、姉弟からの刺激を受けてなんとなく作ってみました。

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はまっちゃいました。

 

というわけで、せっかく作った画像なのでブログのアイコンに設定する事にしました。

スタンプは現在申請中ですが、おそらく認可されると思いますので、リリースされたら1人10セット以上買って下さい。

 

あ、そういえば

 

あけましておめでとうございます。

 

新しい年を迎える時って、たいていその年の目標とかたてると思いますけど、なんか目標とかって立てましたか?

 

目標をたてる意味

ボクは未だかつて目標を達成したことがないので、目標なんてたてるもんじゃないって思ってました。

でも、ブログを始めてからすごく世界が広がって、ブログをやってなかったら知る事がなかったであろう人達と(一方的に)繋がるようになりました。

その人達のブログやSNS、メルマガなんかを読むようになって強く感じた事があります。

それは、目標の設定はめちゃくちゃ大事だということです。

 

なぜ目標を達成できないのか

ボクが記憶している中で、「目標」という言葉を最初に聞いたのは小学時代の夏休みの宿題だったと思います。

  • 毎日本を読む
  • 毎日日記を書く
  • 毎日歯磨きをする
  • 毎日家の手伝いをする
  • 毎日勉強する

毎日何かを続けるというのは本当に苦痛でした。

本を読むのも好きじゃなかったし、なんで休みになると急に日記をつけなきゃいけないんだって思うし、歯磨きもあまり好きじゃなかったし、家の手伝いも面倒くさいし、勉強なんてもってのほか。

さらに面倒だったのが、毎日やったかどうかをチェックする表みたいなのがあること。

もちろん、最初はやる気満々なんです。

オレには出来る。

毎日ちょっとずつやればいいんだろ?

楽勝じゃないか。

気がつけば新学期を迎えていました。

 

目標というものとの出会い方がよくなかったんでしょう。

そこから目標と聞くとトラウマになっていたように思います。

しかも、これらの目標は自分で設定したものではなく、学校側から強制的に押し付けられた目標だったことも要因かもしれません。

 

ボクが目標を達成出来なかったのは、目標のもつ意味を正しく認識していなかったことが原因なのかもしれません。

 

上手く行かない理由、それを解決する道順こそが「目標」

例えばボクの今年の目標は、

 

「心を込める、丁寧にやる」(すっごくありきたりですいません)

 

ボクは基本的に、前もって予定を立てたり計画をすることが非常に苦手です。

それはある種、ボクが持っている障害の一つなのかもしれませんが、いずれにせよ脳の構造がそうなっている以上は、それを改善させるのは非常に困難なことだと思います。

今までの感覚であれば、予定を立てられない自分をどうやったら変えられるのか、そのためにどんな目標をたてたら良いのか、という発想になっていました。

確かにボクは予定を立てるのは苦手なんですが、別に予定をスマートに立てられる人間になりたい訳ではないんですね。

大事なのは、予定をたてたその先の話なんです。

つまり、ボクが最近大事にしている感覚である「人に喜びをあたえること」「人の役に立つこと」が達成されればそれでいい訳で、予定を立てられる人間になる必要は全くないんです。

 

例えば、すごく緻密な計画でサプライズを企画したりっていうのにすごく憧れます。でも全然できない。何をどう考えればいいのか分からない。

 

出来ない事を出来るようにすることも素敵なことなんだけど、その前にボクは、行き当たりばったりでも、ありきたりな企画であっても、とにかく目の前のことに全身全霊を込めて取り組める人間である方がもっと大事だし、それなら技術や知識じゃなく心の持ち方一つでなんとかなるって思えたんです。

それに気づかせてくれたお話を紹介します。

 

稿本天理教教祖伝逸話篇七 「真心の御供」

中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮に、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖(おやさま)にお上げして下さい。」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖(おやさま)のお目にかけた。
すると。教祖(おやさま)は、いつになく
「ああ、そうかえ。」
と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。
それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖(おやさま)にお上げして頂きとうございます。」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。
例によって、こかんが教祖(おやさま)のお目にかけると、教祖(おやさま)は、
「直ぐに、親神様にお供えしておくれ。」
と、非常に御満足の体であらせられた。
これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖(おやさま)には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。
こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖(おやさま)に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖(おやさま)は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。
そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、
「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない。」
と仰せられた。

 

こかんは教祖の末娘のこと。

 

引用:天理教勉強blog: 稿本天理教教祖伝逸話篇七 真心の御供

 

ボクはこれまで、このお話はお供えする時の心が大事なんだという風に捉えてきました。

つまり、神様に対する心のあり方が大切だという認識でした。もちろんそれも大切です。

でも、今になって考えてみると、神様自身は決して自分のために何かをしてほしいと思ってる訳ではないんです。

その人が、その瞬間、真心を発しているかどうか。

むしろ、それだけが楽しみなんですよね。

神様は人間の心にしか興味がない。

お金や物なんて要らない訳です。

 

自分自身に真心を供えて欲しい訳じゃなくて、世界中の人間が、今この瞬間に真心を発しているかということだけが知りたい。

 

たとえそれが、どんな過酷な環境であっても、どんなに辛い瞬間であろうとも、その人がその瞬間に持てる全ての真心を発しているか。それが知りたいんですね。

辛い環境を喜べなくてもいい、楽しめなくてもいいと思うんです。

ただ、真心を発することだけは心がけていきたいなって思います。

 

というわけで、今年はたくさんの人にたくさんの喜びを与えるために、心を込めて、丁寧に、真心を与えまくっていきたいと思います。

 

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