天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

「神」という言葉に隠された信仰者がはまる落とし穴

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「神」という言葉を聞いた時、アナタはどんなイメージを膨らませますか?

どうも、コムヨシです。

 

神という言葉がいつ頃から使われるようになったのか、ボクにはてんでわかりませんが、信仰の有る無しに関わらず、神という存在を信じる信じないに関わらず、神という言葉を聞いたことがないという日本人はいないでしょう。

 

先日送られてきた大教会の月報の中に、とても興味深い内容の記事が掲載されていました。本人の承諾を得たので、本分をそのまま掲載します。

 

 私は未信者として今回の学修(学生生徒修養会大学の部)に参加させていただきました。その理由の一つに「天理教の人は良い人が多いから、天理教の教えを知ることで、自分も良い人に成長出来るのではないか」という知的好奇心があります。

 実際に学修で様々なことを学んだ中で、一番自分が求めていた答えだと感じた教えは「人を助けて我が身助かる」です。もちろん人間がなぜ生まれたのかという「元」を知るという視点や、「幸せに生きるために造られた」という話が大事ではありますが、そういった話は別の宗教でも聞いたことがあります。しかし、それを実現するという段階では、この「人を助けて我が身助かる」というのが重要なポイントであり、人間が幸せに生きるための真理なのではないかと感じました。

 一方で、未信者である私が学修で一番苦しかった点は、神の存在を認めることでした。(失礼な話、教祖が人々が幸せに暮らせるように神の存在をでっち上げたのではないかと考えたことすらありました)「ひのきしん」は神の存在無くしてはただのボランティアになってしまうし、「にをいがけ」も神を信じていないとなかなか苦しいものがあります。しかし、この神を信じて凭れかかるという行為は、人間の心に安心を生み出し、相手のことを思いやる余裕を作り出すのではないかということも学修で考えたことの一つです。

 信じやすい人が損をしてしまうことも多いこのご時世、神はもちろんお互いを信じ合う力こそが、幸せに生きるために必要なのではないか、と学修を通じで感じることが出来ました。

 

 

「神」という言葉がもつ力

天理教でいうところの神様は、いうまでもなく「親神天理王命」です。

確かに神という言葉がくっついています。

しかし、天理教では次の様に教えられています。

  • 神様が自分自身を「神」と名乗った
  • 「月日」と名乗った
  • 「をや」と名乗った

「おふでさき」といわれる書物がありますが、その中で、筆主である親神様を表す一人称が徐々に変化していくことが分かります。

 

それが、上記で説明した通り「神」▶︎「月日」▶︎「をや」という順番で記されています。

これの意図するところは、親神様という存在を、当時の人々によりわかりやすく説明することが目的だったと言われています。

 

つまり、神は神でもありきたりの神ではなく、昼間は太陽の様に夜は月の様に、昼夜の区別無く、この世界を見守っている、親なる神だということを、分かりやすく教えるための一つの手段だったと言えます。

 

分かりやすく伝えるためには、伝える側が相手側の理解出来る範囲内の言葉を用いることが大前提になります。

 

赤ちゃん言葉の「ぶっぷ」「てって」「まんま」「ないない」という具合に、相手側の目線にたって伝えるということです。

 

「人間の親」ということを認識してもらうためには、いきなり

 

「ワシ、自分らの親だからよろしく」

 

なんて言っても、通じないどころか信用してくれません。

 

まずは、とんでもない存在なんだということを示す必要があります。そのために選んだ言葉が「神」だったんですね。

 

 

ぢばは天理王命の神名が授けられている

親神天理王命は元の神であり、実の神であるといいます。

 

元の神とは、この世界を創造した神様っていうこと。

実の神とは、造っただけじゃなく、それからずっと守護してる神様ってこと。

 

こっからはボクの個人的な悟り「コムヨシ教」になりますが、

 

親神天理王命は「親神」と「天理王命」に分けることができます。

親神=元の神

天理王命=実の神

 

親神はなんとなくイメージしやすい。陽気ぐらしを楽しみにこの世と人間を造った。

 

問題は天理王命です。

確か教典かなんかに出てくると思うんですが、ぢば(人間が最初に創造された地点)に天理王命の神名が授けられています。

 

ボクはここにヒントが隠されていると思っていて、

 

人間創造の時、色々な魚を呼び寄せて夫婦の雛形を造った訳ですが、それらの魚すべてに神名が授けられていて、その総称が天理王命になっています。

 

つまり、天理王命というのは「神」というよりは「法則」じゃないかなと認識しています。

 

この世の法則です。

 

人間が幸せになるための法則、陽気ぐらしを司る法則だと思うんです。

 

そして、その天理王命という法則を更に司っているのが親神ではないか。

 

天理教の教えを知らなくても、陽気ぐらしができる人が世界にたくさんいる理由は、天理王命という法則が存在しているからなんです。

 

法則がある以上、その法則にたどりつくことがこの世の真理であり、それに気づき実践出来る人が成功者になっているのではないでしょうか。

 

つまりそれが、「人たすけたら我が身たすかる」というポイントです。

 

 

神のためではなく、陽気ぐらしのための教え

今回、この記事を書こうと思った理由は、感想文中の

 

「神の存在をでっち上げたのではないか」という一文が、妙に自分の中でしっくりきたからなんです。

 

ボクは今回、記事の中で、ダラダラと訳の分からないことを書いたわけだけど、それを一言でいうと「でっち上げたのではないか」という一言で済む気がします。

 

もちろん、本人が思っていた「でっち上げた」と、ボクが感じている「でっち上げた」はニュアンスが違います。

 

ボクが伝えたいのは、言葉っていうのは本質を伝えるための手段でしかないっていうことなんです。

 

いま、僕らが常識的に使っている教語や解釈は、本当に本質を捉えているのかということを、改めて考える必要があるのではないかと思うんです。

 

本質を捉え、常識のアップデートを常に繰り返していかなければならないと思うんです。

 

信仰って、神様と向き合うものだと捉えがちですが、他人との関わりの中でしか生まれないんです。他人との関わり方が、法則に適うあり方なのかどうかだと思うんです。

 

人に喜んでもらうこと、誰かのためになりたいと思う心、行い。

 

これが法則に適う心であり、その法則を司る存在が期待する陽気ぐらしという生き方なのではないでしょうか。

 

学生の感想文からたくさんのことを学ばせてもらいました。

 

 

今日も一日陽気ぐらし!