天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

だめの教えを抱える天理教がすべきことは、当たり前の感覚を身につけることだと思う。

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どうも、コムヨシです。

 

天理教の教えは「だめの教え」と言われています。

「だめ」というのは悪いという意味ではなく、野球などの「だめ押し」に使われる「最後の」とか「止めの」という意味で用いられています。

 

「最後の教え」と書いて「だめの教え」と読んだり、「究極の教え」と書いて「だめの教え」と読んだりします。

 

つまり、ハンパねー教えだっていうことなんです。

まったく付け入る隙を与えない完璧な教え。

 

今回は、この天理教の教えがなぜ「だめの教え」なのか、そして、だめの教えだからこそ抱えざるを得ない問題点に迫ってみようと思います。

 

 

だめの教えって結局どの教え?

スマホアプリの「おさしづ」でだめの教えと検索してみたら、一件ヒットしました。

とても便利な世の中ですよね。

 

おさしづがなんなのか分からない方は、まずはこちらをご覧下さい↓

原典について ~「おさしづ」とは~ | すがけんの天理教のみかた

 

で、そのおさしづを引用してみますね。

 

明治21年1月8日(陰暦11月25日)

松村吉太郎おぢばへ参詣おさしづ

さあ/\尋ねる一条々々、十分一つ聞き分けば十分よし。神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。神一条の道こういう処、一寸も聞かしてない。天理王命というは、五十年前より誠の理である。こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行った出なし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。内々へも伝え、身の内かしものや、かりものや、心通り皆映してある。銘々あんな身ならと思うて、銘々たんのうの心を定め。どんな事も皆世上に映してある。何程宝ありても、身の内より病めばこれ程不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理をわきまえ。又々内々の処、銘々の処にも速やかの日がある。銘々ほんと思うた事あれば尋ねにでよ。

 

要は、だめの教えは、この世の真理そのもののことであり、さらにいうとその真理を造った存在そのものであるとボクは解釈しています。

 

人間はなんのために造られて、なんのために生きているのか。

 

このテーマは古今東西、ずっと語られ、議論されてきたテーマですが、その答えに自力でたどり着いた人間は未だにいないのではないでしょうか。

 

そう、天理教がだめの教えと言われる所以はそこにあって、「だれが」「なぜ」「なんのために」人間を造ったのかということに対する答えを知っています。

 

この辺の詳しい解説は、他にも色々なサイトがあるので、そちらを参考にしていただければいいと思います。ホントに便利な世の中ですね。

 

今回ボクが言いたいのは、だめの教えについての解説ではなくて、こんなにもハンパねー教えを持っている天理教が、なぜ今日、ハンパねー集団に成り得ていないのか、ということなんです。

 

ボクなりに考えてみたら、そこには、だめの教えだからこそ抱えざるを得ない苦悩があることに気づきました。

 

 

教えが完璧すぎてツライ

だめの教えをもつからこそ抱える苦悩。

それは、教えが完璧すぎるっていうことですww

八つのほこりなんかはその典型ともいうべき教えですよね。

 

そして、天理教の人が最も陥りやすい負のスパイラルが、いわゆる「身上さとし・事情さとし」ではないでしょうか。

 

身上とは身体のことですが、身体に現れてくる「病気や怪我」として言われることが多いです。

事情とは、自分の身の回りに起こる様々な事柄ですが、特に、自身に都合の悪い諸問題について語られる事が多いようです。なので、

  • 身上=病気・怪我
  • 事情=身の回りの諸問題

という感じになります。

 

また、「成ってくるのが天の理」とも言われ、自分自身や身の回りに起こる事柄は、みな自分の心通りに成ってきている、とも教えられています。

 

つまり、「身上さとし・事情さとし」は、自分はなぜガンになったのか、なぜ骨折したのか、なぜ子供が不登校になってしまったのか、などという諸問題に対して、起こってくるべくして起こったその原因を、十全の守護や八つのほこりという教えに照らし合わせ、心のあり方を前向きに導くための一つの手法です。

 

この手法自体は素晴らしいもので、そのお陰で救われた方は数えきれない程いらっしゃるでしょうし、これからもいることでしょう。

 

でも、ここで信仰者として心の片隅で感じてしまうのが

 

自業自得感です。

  • こんなに信仰しているのに病気になる自分はダメだ
  • 信仰者失格だ
  • 自分の心は汚れている

なぜなら、心通りの守護だという教えだから。

 

どういうことかというと、

現れてきている問題や悩みっていうのは、自分の心に見合ったものだということなんですね。

 

実行できない自分が悪くないと頭ではわかっていても、

  • 教えを実行できない自分が苦しい
  • 教えを実行できていない他人が悪く見えてしまう

 

最悪です。自分が信仰者失格だと感じるのはまだしも、それを他人にまで感じてしまうところが、完璧すぎるこの教えのツライところだと言えます。

 

幸せになるはずの教えなのに、苦しくてしょうがない。

 

 

信仰をもたない人の方が幸福度は高いのか

信仰をもたなくても成功している人や、魅力的な人、慕われる人、幸せになっている人は世の中にたくさんいます。

 

以前にも触れましたが、世の中で成功している人と言うのは、この世の真理に基づいて行動しているから、自然と成功を収めているんですね。詳しくは↓から

 

com-yoshi.hatenablog.com

教えの知識量が増えたからといって、人生が豊かになるわけではありません。当たり前の事なんですけど。

 

 

知識を増やして、答えを集めて、それで何かが変わるなら、宗教学者は全員大教会長になるほどのインフルエンサーになっているはずです。

 

でもそうじゃない。それは信仰者も同じ事ですよね。

 

 

必要とされる時、必要とされる人へ

どうして教えをたくさん知っている宗教学者や、信仰者が、信仰をもたない人よりも成功しづらいのか。

 

信仰のない人は、人生の中であっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、世の中の真理を体当たりで実感しているんだと思うんです。

だからこど、言葉に重みが出るし、自力で進んできたからこそ自分に自信がつくんですよね。

 

でも信仰者はどうでしょう。

 

つまずく前に、ぶつかる前に、体当たりする前に「言葉の上での真理」を知っています。

それは、教科書の問題を見もせず、解きもせず、最初から答えの用紙だけ渡されているようなもんです。

 

この問題ではなぜこの答えが導き出され、なぜその答えが大事なのかがわからない。

 

目の前の問題に一生懸命取り組んでいる人が、必死の思いでたどり着いた答えを否定し、さも自分の方が正しいかの様に教えの剣を振りかざし、相手を切り刻んでしまうことが、当たり前のように行われています。

 

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教えはなんのためにあるのか。誰のためにあるのか。

 

必要とされる時、必要としている人に届けられるべきです。

 

必要とされる時とはどんな時なのか。

必要としている人とはどんな人なのか。

 

それはまず、自分が体感するしかありませんよね。

自分はどんな時に教えを必要とし、教えに助けられたのか。

 

だめの教えを抱える天理教がすべきことは、まずは当たり前に生きることではないでしょうか。

私たちは余りにも当たり前に生きることを知らなさすぎる。

その中で、体当たりで人生を生き、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、自力で前進していくことが求められているのではないでしょうか。

 

話はそれからだ。

 

教えも、それからだ。

 

 

今日も一日陽気ぐらし!