天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

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天理教に主体性がなくなったのは信仰が◯◯ベースになったから

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どうも、コムヨシです。

 

天理教青年会で毎月発行している「大望」という雑誌があります。

ボクは金銭的な事情でほとんど読んだことはありません。

 

約一ヶ月前の、教区青年会例会で内容がちょっと話題になっていたので、気にはなっていました。

この前大教会に寄った時に、それを思い出したので、拝借して読んでみました。

 

なるほど、おもしろい。

 

最近読んだ中ではダントツに骨太な内容でした。

その記事で問うているのは、一貫して主体性でした。

 

この記事では、その内容と、ボクの個人的な解釈と感想をまとめてみようと思います。

 

 

答えられるかこの素朴な問いに

この内容は、大望五月号に掲載されている「十全の守護につながる心」というテーマで宇野義明本部員が執筆しているシリーズ第2話です。

以下に内容を掲載します。

 おぢばから南東方向に石上神宮がある。あそこの境内地というか公園に、放し飼いのニワトリがいる。興味本位で行ったところ、そのニワトリが大木の枝に止まって小生を見下ろしているではないか! 暫く対峙していたが、見下ろされているうちに、進化したニワトリと退化していく人間像が浮かび上がってきた。

 コンビニの出現で、季節や時間に関係なく、求める物は殆ど手に入れることができ、取り入れたい情報は労せずしてスマートフォンで分かる昨今。早速、人間がニワトリになってきているのではないか、という錯覚に陥った。「与えられるままの環境に身も心も浸りきっていやしないか、しっかりと自分自身を見つめ直せ」と、そのニワトリから学んだ。

 では、人間が無意識の依存から脱却するには何を意識すれば良いのだろうか。それには、私は次の三つの心得を持っておかなければ、今の時代を愉快に暮らせないと思う。

 

①協調性のある心のバランス感覚を保ち、会話に慣れておくこと。

②自分の頭で考える力を養うこと。

③人とのたすけ合い、励まし合いの中に、自分自身で考えたことは勇気を もって言葉や行動に移すこと。

 

 以上の心の整理整頓して、質問に答えて下さい。先ずは小手調べに「道路に敷設してあるマンホールの蓋は何故丸いのか?」。四角であっても良いのに。

 このように、見えるものには意味がある。それと同じように、見えないものにも意味があることを認識して、今から問う素朴な質問に自分の言葉で表して答えて下さい。

 

①何故信仰をするのですか?

  信仰をしなくても立派に生きている人はたくさんいる。

 

②いつも言っている「陽気ぐらしの世界」はいつ来るのですか?

  一日も早い陽気ぐらしの実現に向けて、とよく言うが、いつ来るのか。

 

③「おつとめ」の大切さを教えて下さい。何故するのですか?

  おつとめをすれば、人生はどう変わるのか。分からないままにやって  いて虚しく思わないのか。

 

④「みたま様」と「お墓」の違いをハッキリと教えて下さい。

  みたま様には何と申し上げ、お墓ではどう祈れば良いのか。お墓参り  に行くと、年に二回位しか綺麗に掃除しない所がよく見受けられる。

 

親神様は、私達に身体を何故あげるといわないで、貸すといわれたの 

 か?

 

⑥「働く」とは側々を楽させる。それだけの意味?

  質問に答えられない時、教祖がおっしゃっている、で全て片付けてい  ないだろうか?

 

親神様、教祖、みたま様へ参拝の時、何を申し上げたら良いのですか?

  何も考えずに、言わずに頭を下げているのは拝ではない。ならば、そ  れぞれに何と申し上げたら良いか。

 

 以上、自分の頭でじっくりと思案してから、仲間達と話し合って下さい。

(マンホールの蓋の答え)

 円の対角線が皆同じで、中に落ちない。四角の蓋は対角線が他の二辺より長いから落下する恐れがある。

 

引用元:大望5月号:十全の守護につながる心「第二回 答えられるかこの素朴な質問に」宇野義明著

 

いかがでしょうか。

素朴なようで、かなりエッジの聞いた質問ばかりな気がします。

 

では、ボクなりに答えてみようと思います。

 

 

質問の答え

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①の答え

ボクが信仰する理由は、陽気ぐらしという生き方がとても本質的でワクワクしたことが一つ。

入信初代の先祖はもともと大の天理教嫌いだったが、たった1人の息子を助けたい一心で神様にすがり、助けていただいた後は約束通り布教師として歩いていて、ボクはその先祖の男気というか心意気にとても感動して、魂が震えた。

ボクがこうして今生きているのは、あの瞬間、先祖が大嫌いだった天理教を信じきり、一生懸命布教に歩いてくれた賜物だと思う。その流れを断ちたくない気持ちも理由の一つ。

 

②の答え

「世界一れつ陽気ぐらし」という世界はいつ来るのかはボクにはわからない。

でも、陽気ぐらし世界はボクの心一つだと思う。現在は暗黒暮らしだが。

 

③の答え

わからないままやっている。

あまりやりたいとは思わない。

本部のかぐらづとめだけで良いんじゃないかなって思ったりする。

 

④の答え

みたま様は「遺徳」で、お墓は「お借りしていた体を収める場所」。

みたま様に対しては、みたま様のお徳で今日も一日お守り下さいとお願いし、お礼をしている。

お墓での拝み方はわからない。お盆にしかお参りしないし、掃除もお盆と彼岸だけだと思う。

 

⑤の答え

あげちゃったら、自分で心臓とか脳みそとか動かさなきゃいけないんじゃないかな?

つまり生きれないんじゃないかな?

 

⑥の答え

楽させるというよりは、喜ばせるとか役に立つ、貢献するっていう感じだと思う。

 

⑦の答え

基本的には、なんとなく頭を下げているだけ。しいて言うなら

親神様:今日も変わらぬ御守護でお連れ通り下さい/御守護をありがとうございました

教祖:今日もようぼくとしてお使い下さい/お使い下さりありがとうございました

みたま様:今日もお守り下さい/お守り下さりありがとうございました

 

とう感じになりました。

みなさんはどんな感じになりましたか?

 

 

答えはあるが、正解がないのが信仰

これらの質問に共通しているのは、教典に記されていないということではないでしょうか。

 

恐らく一度は、誰しも疑問に抱いたテーマだと思います。

喜び勇んで修養科を志したあの日、さらに信仰を深めたいと思って志望した講習。

 

しかし、そのいずれでも正解は誰も教えてくれませんでした。

なぜなら、本部として正式な正解を持っていないから。

 

かと言って、考えるための時間もなく、ただただうやむやにされてきた気がします。

それこそ、「教祖がそうおっしゃっている」の一言で片付けられてきました。

 

かと言って、自分らしい解釈をすれば「それは異端だ」だのと危険視扱いされ、思い切った考えをもてずにきたのではないでしょうか。ボクだけでしょうか。

 

天理教の信仰の中心が個人ではなく、教会に置かれたことによって、信仰の主体性も教会に移ってしまったことが原因でしょう。

 

詳しくはこちらの記事も参考にしてみて下さい。

com-yoshi.hatenablog.com

 

今日も一日陽気ぐらし!