天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

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個性を活かした社会貢献で天理教の教会をアップデートしよう!

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ども!コムヨシです。

 

個性って大事ですよね。

 

個性が大事だというのはみんなわかっていることだと思いますが、いわゆる「発達障がい」と呼ばれる病気との境目が曖昧だなって感じたことありませんか?

 

個性ってなんなんでしょう?

障がいってなんなんでしょう?

 

ボクなりの考えをまとめてみようと思います。

 

 

障がい者が増えたのではなくカテゴリーが増えた

うちの教会には自閉症と診断されている方がいます。

 

ボクが会長に就任した時、彼は小学5年生でした。ボクの会長生活は彼の存在なしではかたれないくらいボクの信仰姿勢に大きな影響を与えてくれた超重要人物です。

 

彼の話はまた別の機会にするとして。

 

彼はいわゆる「特別支援学級」に入っていました。

彼が通っていた小学校は少子化が超スピードで進んでいる地域にあって、学年全体で40人程度の人数だったと思います。

 

その中にあって特別支援学級の彼の同級生は3〜4人はいました。

 

ボクが小学生の時は、学校全体で(約500人)2〜3人だったので、特別支援学級に通う彼の同級生の人数を聞いてとにかく驚きました。

 

当時は、この地域が特別に多いのかな?たまたま多い時期だったのかな?というレベルでしか考えれませんでした。

 

その後、障害のカテゴリーが増えたということを知りました。

障がい者が増えたわけではなく該当者が増えたということだったんですね。

 

 

カテゴライズで助かるのは該当者じゃなくて周りの人

そもそもどうしてカテゴリーが増えたのでしょうか。

 

ボクは専門家ではないので詳しいことは分かりませんが、当事者の周りの人たちの認識を深めるためではないかと考えています。

 

つまり、

  • なぜ子のは他の子と同じようにできないんだろう?
  • なぜこんなに落ち着きがないんだろう?
  • なぜ理解不能な行動が多いんだろう?

 

というような理解しにくい行動に対して、周囲の人がその行動の原因を知ることが可能になり、対応しやすくなるというメリットがあると思うんです。

 

それによってボク等のような素人でもある程度の知識を身につけられるようになったと思います。

 

一方で、カテゴライズされた当事者はカテゴライズされたからといって生活が劇的に変化する訳ではないし、イヤな言い方をすると「レッテル貼り」をされただけで終わっている可能性が高いんです。

 

ある程度年配の方が、「自分はちょっと人と違うな」という悩みに対して「障がい」という原因があったということを知ることは大きな安心感はあるかもしれません。

 

かといってそれで何かが解決されているわけではないと思うので、カテゴライズが必ずしも本人のためになっているとは言えないでしょう。

 

むしろレッテル貼りをされることによって、むしろ生きづらさを感じてしまうという方もおられるようです。

 

カテゴライズは本人のためではなく、本人を取り巻く周囲の人の理解を深めるためのシステムだと言えます。

 

 

人ではなく現在の世の中のシステムそのものが障害

障がい者が、何故「障がい者」と呼ばれているかを考えたとき、世の中や社会で暮らす上でクリアしなければならない問題が多いということから、「障がいを抱えている」というような表現が生まれているのではないかと思います。

 

本人たちは普通に暮らしているだけなのに、普通に生きているだけなのに、暮らしにくさや生きづらさを感じるのは彼らに問題があるんじゃなくて、問題だと感じざるを得ない世の中のシステムこそが問題なんですよね。

 

だからボクは、そういう人たちがストレスフリーで暮らせるような世の中へ近づくようなことを考えて形にして行きたいなって思います。

 

 

人だすけのポテンシャルが高い天理教だからできる世の中のデザイン

「人のために何かしてあげたい」っていう思いは本来人に備わっているポテンシャルですが、天理教の人はその中でもズバ抜けて高いと思うんです。

 

人のために何かしたい!世の中のために何かしたい!

 

でも何したらいいかわからないっていう人多いと思います。ボクもそうです。

 

そういうのをちょっとずつ形にしていければいいですよね。

 

そういう雰囲気を教会から発信していくということを考えると、教会の価値はまだまだ可能性がありそうです。

 

教会って同じような認識をもった人が集まりやすいと思うので、「発達障がい」に限らず、教会ごとの個性を見極めて発揮していければ、その価値観に共感する人の憩いの場になるかもしれませんね。

 

一概には言えませんが、いわゆる「事情教会」も「教会とはこうあるべきだ」という思い込みや先入観によって出来ているのかもしれません。

 

教会ごとの個性を認め、その個性がどうすれば地域に還元できるかということを考えることは、障がいを「個性」と認め、その個性を輝かせるにはどうすれば良いか考える行為と似ています。

 

教会という箱にこだわる必要は必ずしもないと思いますが、せっかく大きな箱があるのであればそれを活かさない手はないですよね。

その教会の個性が地域に必要とされ、地域に還元できるのであればそれは大きなおたすけだと思うし、陽気ぐらし世界の具現化にもなるでしょう。

 

個性を生かせる人、教会が増えることは世の中をより豊かなものにデザインしていく作業だと思います。

 

ボクはそんな人になりたいし、そんな人を増やしたいです。

 

世の中を素敵にデザインするのは、アナタの中に眠る誠真実というアイデアかもしれませんね!

 

 

今日も一日陽気ぐらし!