天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

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教会に必要なのは宗教的要素よりも社会的要素だと思う

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どうも!コムヨシです。

 

コムヨシ布教所が毎月開催している「月次祭」が今月も行なわれました。

 

その中で「仏教の2階建て理論」というかなり面白いお話を聞いたので、今回はそこで感じたことをまとめてみようと思います。

 

 

日本の仏教は「仏教×先祖崇拝」の二階建て構造

ここでいう「二階建て」というのは建物の構造の話ではありません。

 

日本の仏教は、いわゆる大陸から伝わった仏教に先祖崇拝という宗教概念が混ざりあっているというのです。

 

仏教と聞くと「葬式」というイメージがありますが、そもそも仏教はそういったものではないといいます。

 

江戸時代に成立した檀家制度がその感覚を強くしたようですが、それによって「お寺側の仏教」と「檀家側の仏教」に大きな隔たりが出来てしまったようなのです。

 

例えば葬式のお礼として支払う「お布施」が分かりやすいです。

 

そもそもお布施っていうのは

 

日本で「お布施」というと、「葬儀や法要のときにお坊さんにお渡しする謝礼」を意味することが多いのですが、本来はもっと広く大きく「与えること」を意味します。

お金や衣服、食料などの“財”をほどこす「財施」はそのひとつ。仏法を説き聞かせる「法施」、怖れをとりのぞく「無畏施」。

そして「雑宝蔵経」というお経には、「無財の七施」という周りの人たちをしあわせにするお布施の方法も説かれています。

やさしいまなざしで相手をみる「眼施(げんせ)」、にこにこと笑顔で接する「和顔施」、やさしい言葉で語りかける「言辞施」、自分の身体で他の人に尽くす「身施」。思いやりの心を持つ「心施」、さらには席や場所を他の人に譲る「床座施」、自分の家を提供する「房舎施」というものまであります。

これらはすべて、お金ではないお布施のやり方です。

 

彼岸寺〝お布施とは〟より引用

 

ボクの主観ですが、お礼というよりは「自ら進んで与える行為」がお布施ということになるようです。

 

一方で、葬式をしてもらった家族側からすると、「故人を供養してもらった」という行為への対価そして支払う謝礼という感覚が強いでしょう。

 

じゃあ二階建てとはどういうことかというと、

 

お布施を持ってきた家族は1階で「先祖崇拝」としてお金をもってきたのに対して、お坊さんは2階の「仏教」としてお金を受け取っているという関係になります。

 

ボク自身聞いたばかりの話なのできちんと説明できないのですが、おおよそ言いたいことは理解していただけたかと思います。

 

今回ボクが考えたいのは仏教のことではなく、

  • 天理教の教会における「階の構造」はどうなっているのか。
  • 各階の中身は一体何か

ということを考えさせられました。

 

 

庭先から建物への導線

仮に教会の二階が「おつとめ勤める」ということだとしましょう。

 

最近は子ども食堂を始めとした、地域との関わりをもった取り組みがたくさん生まれて来ていると思います。

 

これを一階部分と捉えることも出来るかもしれませんが、実はこれは教会の「庭先」に入っただけというとらえ方も出来ます。

 

バーベキューをやったりお楽しみ行事を開催して、教会に人を招くことは出来ます。

 

形の上では神殿の中に入ったという事実があったとしても、精神的には「庭先どまり」

というケースが多いのではないでしょうか。

 

庭先からどうやって中に入ってもらうか。そこで多くの教会がつまずいているのではないかと思います。ウチもそうです。

 

 

 

ゴールはどこ?

そもそもなぜ教会に来てもらいたいのでしょうか。

 

教会に来るとどんなメリットがあるのでしょうか。

 

おつとめをつとめて欲しいからでしょうか。

 

たすかって欲しいからでしょうか。

 

たすかるとはどんな状態でしょうか。

 

たすけて欲しいわけでもなく、おつとめをつとめたい訳ではない人が教会に行くメリットは一体なんでしょうか。

 

これは本部では教えてくれません。修養科にいっても講習にいっても学ぶことは出来ません。

 

教会を存続させていく上で一番大切なことなのに、誰も知らないし誰も教えてくれません。

 

何故でしょうか。

 

答えがないからです。そして恐らくまだ誰もやったことがないからです。

 

 

 

深堀すればするほどモヤがかかって霞む教え

天理教においておつとめを勤めることは、最も重要な行為とされています。

 

しかしそれが何故なのか分かりません。

 

「教祖が仰った」「教祖が命を削って伝えられたものだ」

 

という答えが正解になっています。

 

教祖を完全に信じきっている信仰者ならともかく、大事だということの理由が曖昧なまま「大事なことだから」という理由だけで意味もわからずおつとめをつとめるのはやはり苦痛です。

 

朝夕のおつとめはいつ頃成立して、なぜ今のようなスタイルになっているのか、誰に聞いても分かりません。

 

なぜどのようにして成立したのかわからないことを、私たちは「最も大切なこと」として当たり前のように勤めています。

 

それはそれで崇高な行為ですが、やはり説得力に欠けます。

 

おつとめがなぜ大切なのか、なぜ勤めるべきなのか、ここに明確な意味を見いださなければやはり「庭先」から「建物」に入ってもらうのはとても難しいです。

 

 

教会の中身は必ずしも宗教的要素でなくてもいいはず

教会ですべてを完結させるという発想を捨てることがまずは大事ではないかと思います。

 

おつとめを勤めるということではなく、教会につながるということでもなく、おぢばへ帰るということでもなく、教会を媒体として知り合った、繋がりあえたお互いが目指す姿が世の中を更によくするための活動になればいいのだと思うんです。

 

その繋がりやコミュニティをより強く結束させるために、おつとめを勤めるという流れになるのであればとても素晴らしいと思います。

 

つまり、教会が社会へ向けて貢献しようとしている取り組みに共感を得てもらい、共感してくれた人の集まりをコミュニティとして発展させることが、教会の役割になっていくのが最善だと思います。

 

誰か1人の思想や意思を、教会という媒体を通して、より大きく確実性のある具体策として昇華させ、実行に移していく。

 

共感してもらうために布教をするということではありません。

 

共感してもらうためには、まずは自分がどんな人になりたくて、どんな社会にしたくて、どうやって世の中を良くして行きたいかという発信活動や実際に行動に起こして行くということが大事です。

 

中身が宗教的要素を含んでいるかどうかは全く関係ないです。

 

とにかく「素晴らしい活動だ」と思ってもらえるかどうかだと思います。

 

先ずは自分が変わるということですね。

 

やっちゃいましょう!

 

 

今日も一日陽気暮らし!