天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

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【オンライン感話大会】おさづけよりも大切なものがあるはずなんだ!

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ども!コムヨシです!

 

天理教って素晴らしい!

でも、深めれば深めるほど見えてくる人間臭さ。。

 

 

 

そんなことを感じて「天理教」で検索したらヒットしたコムヨシブログ。

 

ブログに共感し、その流れでコムヨシ布教所(オンラインサロン)に入会された信仰初代のMさんがいます。

 

今月スタートした新企画の「オンライン感話大会」の記念すべき1回目の弁士を務めてくれました。

 

今回はMさんの感話内容をザックリと紹介しながら、そこから派生した議論テーマについてまとめてみます。

 

 

昇進と同時に適応障害を発症

とある会社に勤務しているMさんは、数年前に係長に昇進しました。

 

昇進にはあまり乗り気ではなかったようですが、責任感の強いMさんは係長に就任します。

 

仕事も増え、責任も増します。

 

仕事が嫌いなわけではなく、むしろ好きなくらいだったので、充実感もあったようです。

 

時に人はハイになっていると、自分の些細な感情や心境の変化に気付きにくくなりがちです。あるいは気づかないふりをしてしまいがちです。

 

Mさんはある日を境に会社へ行くのが怖くなってしまいました。   

 

頑張って駅まで行っても、改札を通ることが出来ない。

改札を通り抜けても電車に乗るだけなのに、何本も電車を見送り、結局家に戻る始末。

 

家に戻ることで僅かな開放感を感じつつも、それを遥かに上回る罪悪感。

 

きまって早朝4時に目が覚めてしまい、恐怖心で落ち着かずそこから眠ることができません。

 

そんな日が何日も続いたある日、17歳のころから付き合いがあった友人が連絡をくれたといいます。

 

その友人はMさんに

「会社行かなくてもいいんだよ。休んでもいいんだよ。」

と優しく声をかけてくれました。

 

1ヶ月間会社を休むことにし、病院を受診した結果「適応障害」との診断でした。

 

 

毎朝4時にかけてくれた1本の電話

1ヶ月間の休職を経て会社に復帰したMさんでしたが、調子がよくなった訳でもなく、早退や欠勤を繰り返す有様でした。

 

シングルマザーのMさんには「働かない」という選択肢はありません。Mさんにとっての地獄の日々は続きます。

恐怖心から起こる早朝の目覚めは相変わらず治りません。

 

そんなある早朝4時に、1本の電話がなりました。電話の主は例の友人からでした。

 

毎朝4時に目が覚めて苦しいという悩みを聞いて、少しでも恐怖心を和らげてあげたいとの想いからだったといいます。ただただじっとMさんの話を聞いてくれたそうです。

 

その友人のからの電話は、Mさんが回復されるまで毎日かかってきたといいます。その期間は実に2年間にわたります。

 

さらにMさんの友人は、「まずは1ヶ月間休まずに会社に行くことを目標にしよう!」と小さな目標設定もしてくれました。

 

今日も行けた!今日も行けた!

 

小さな成功体験がMさんの自己肯定感を高め、発症から約2年後、Mさんは一日も休まずに会社に行けるようになりました。

 

 

天理教を教えてくれない友人

会社の同僚から「どうやってそんなに元気になったの!?」と驚かれる程にMさんは回復され、むしろ発症以前よりもイキイキとされていたようです。

 

そんなある日、たすけてくれた友人から

「実はワタシは天理教で、教えに則ってあなたに接してきたのよ」

ということを打ち明けられました。

 

Mさんはその友人が天理教だということは昔からのなんとなく知っていたらしかったのですが、特に勧誘されることもなく、教えを教えてくれる訳でもなかったようです。

 

今回も「天理教の教えに沿って接した」ということを教えられただけで、パンフレット一つくれなかったのだそう。

 

天理教にとても興味が湧いたMさんはネットで調べ、ある教えに共感します。

 

それが「かしもの・かりもの」の教えでした。

体は神様からの借り物で、心だけが自分のもの。

 

発症前、発症中、発症後も自分の環境は何一つない変わっていない。

変わったのは自分の心が変わった。

心が変わると同じ景色でも見え方が変わるんだということを体験し、教えに共感しました。

 

天理教に恩返しがしたい。

そんな思いから教会へ通うようになりました。

 

 

おさづけをどう捉えるか

そんなMさんですが、所属の会長さんとはあまり上手くいってないようなんです。

 

例えば、おさづけについての捉え方や考え方で対立したりするそう。

 

会長さんは

「おさづけは必ず効く。取り次ぐ者と取り次がれる者の心が神様の思いに沿えば必ず効く。効かないのは沿ってないからだ!」

 

Mさんは納得いかないんだけど、自分はようぼくじゃないからなんとなく強くでれない。イライラしてます。

 

その時、メンバーの一人がMさんに次のように質問しました。

「Mさんは病気の時に、その友人からおさづけしてもらったの?」

 

ハッとしたように気づいたMさん。

「一度もしてもらってません」

 

メンバー

「それでも治ったんだよね?」

 

Mさん

「そうなんです!そうなんですよね!自分でも気づきませんでした!」

 

 

おさづけよりも大事なことすっとばしてんじゃない?

これはボクもそうだったんだけど、天理教のおたすけを一生懸命やることって、いかにおさづけを取り次ぐ機会を作るかみたいなとこが(ちょっと極端な表現ですが)あって、そこに変な価値観を見出してしまいがちなんですよね。

 

でも今回の感話を聞いて、もちろんおさづけは大事だと思うんだけど、その前の段階として、困ってる相手に対してどれだけコミットできるかっていうことが一番大切なんだと痛感しました。

 

ていうかそれだけでいいかもしれないんですよね。

 

っていうことを強く感じました。

 

 

おさづけは何故大事か

この感話をきっかけに、メンバーの1人が

 

【効かない「おさづけ」が私達の信仰に必要なのはなぜか?】

 

というスレッドをサロンで立ち上げてくれました。

せっかくなんで投稿ないようを紹介してみますね。

少しばかり過激な題名ですいません。

 

3月19日の感話で、おさづけを受けることなくご守護いただき、信仰初代として通るに至った話になりました。

それを受けて私の疑問の提示です。

 

「効かないおさづけ」なんて題名をつけていますが、今のおたすけの中で「おさづけ」を通して、全く動かない足に感覚が戻り始めるという御守護を見せてもらっています。

 

ただ、「おさづけは効くの?」と聞かれれば、「聞かない」と答えることもたびたびで、「医者や薬のほうが治るよ」とも。

 

それでも「おさづけ」はこの道を信仰していく上で必要だと思います。

 

このスレッドでは「おさづけ」の本質を再認識し、現代社会にアップデートした意味付け見つかれば良いなと思っています。

 

⚠️組織上の「おさづけ」の役割については、議論不可とさせてください。

 

おさづけは本当に大事なのか。

何故大事だと思うのか。

 

そんなことを楽しく議論しています。

 

もちろん何か一つの答えを出すための取り組みではありません。

普段当たり前に取り扱っている存在と改めて向き合う機会になると思います。

人によっては何かしらの答えに繋がるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

そんなことがいま、コムヨシ布教所で行われています。

 

あなたも一緒に考えてみませんか?

 

今日も一日陽気ぐらし!