天理教2.0になるためのコムヨシブログ

23歳で天理教の教会長に就任。 従来の布教活動を心から楽しめず、自暴自棄になる。 ブログという新しい可能性と出会い、新しい教会と信仰のあり方を模索。 お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方である【天理教2.0】を自分のスタンダードにしたいと考えている。 青森県出身 天理高校卒 天理教語学院スペイン語コース卒 天理教コロンビア出張所にて2年間勤務。上級青年勤め後23歳で会長就任。既婚/子供3人/33歳

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教理を正しく理解したからといって成人はしないが世界観は間違いなく広がる|第3回コムヨシ布教所オンライン教理勉強会まとめ②

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ども!コムヨシです。

 

今回は、第3回コムヨシ布教所のオンライン教理勉強会その②です。

その①はこちらから。

 

www.com-yoshi.space

その①では、かしもの・かりものの教理が天理教教典(復元教典)公刊後、分解されて説かれるようになった、っていうのをまとめました。

 

今回は、かしもの・かりものを理解する上でおさえておくべきポイントをまとめてみようと思います。

 

 

神学の観点に当てはめられた「かしもの・かりもの」

昭和24年に天理教教典が公刊され、それ以前と以後とでは「かしもの・かりもの」の説かれ方が大きく変わったということは、前回の記事でまとめました。

 

ではなぜ、教典を公刊することで教理の説かれ方が変わってしまったのでしょうか。

 

勉強会ではあまり詳しく述べられませんでしたが、そこには神学という観点が関係しているというのです。

神学と言うのは、

宗教、特にキリスト教の教理や信仰生活を、その教理の立場から研究する学問。 

 と、グーグル先生は教えてくれます。

 

難しい話はよくわからないので、ボクが把握していることをざっと並べると、

  • 教典のない宗教は低俗な宗教とみられがち
  • 天理教の宗教的権威を上げるために作った
  • キリスト教神学を参考に編纂した
  • だからちょっと無理が生じているらしい

っていう感じになります。

ここで伝えておきたいのは、神学がどうのこうのっていうことではなくて、キリスト教の神学に当てはめて作ったものだから、ちょっと無理がでてしまって、それによって教理を分解して構成するという作業をしなければならなくなったらしい。

ということです。

 

大事なことは、「じゃあ教典いらねーじゃん」っていうことではなくて、史実として、こういう流れがあったということを抑えてつつ、

教典の第4章と第7章は本来はセットで説かれるべき教理だということを知っておくということだと思います。

本来はセットで説かれるべきだということを無視して、十全の守護や八つのほこりの説き分けをしてしまうと、どうしても、教理理解が進まなかったり、おかしな教理解釈が生まれてしまうようなんですね。(ボクもそうでした)

 

 

「十全の守護」は「かしもの・かりもの」をより身近に

では、セットで説かれるとは具体的にどういうことなのでしょう。

 

「人間身の内の・・・の守護の理」とあるところは、実を申しますと、「この神様のかりもの」というように書かれてあった……
(第13回教義講習会)

というように、教典公刊以前は「守護の理」という表現ではなく、「◯◯の神様からのかりもの」という表現だったみたいです。

「働きをかしてもらってる」っていう感じでしょうか。

 

たしかに、「かしもの・かりもの」と一括りで教理説明をするよりも、「十全の守護」というタイトルがあれば、より理解しやすくなるような気もします。

かしもの・かりものの理解を深めるために十全の守護を詳しく説明するという感じなのかもしれません。

 

 

「八つのほこり」は「誠」をより身近に

かしもの・かりものという絶対的なルールを生きていくなかで、そのルールに一番適している心づかいが「誠」だというんですが、その「誠」の心を説く上で基準になるのが「八つのほこり」なんだそうです。

 

これまでボクが感じていたイメージだと、「誠の心」と「八つのほこり」って対象的な関係かなと思ってましたが、対象的というよりは、「誠」に輪郭をつけるための、相対的な関係なのかもしれません。むしろ「誠」を深くしるために必要な心づかいと言えるかもしれませんね。

 

八つのほこりって、もちろん戒められるべき心づかいだとは思うけど、行き過ぎるとマズイよっていうことであって、生きていく上では必要な心づかいっていう見方もできるんじゃないかと思ったりします。

 

かわいがること(かわい)だったり、上を目指すこと(こうまん)っていうのは人類が豊かに生きる上で大切な心づかいだと思うんです。

そこに「誠」っていう要素が入ることによって、「人のために」「世の中のために」心を向けていけるのかもしれません。

 

八つのほこりは、人の心のアラを指摘するためのものでもなければ、自分の心づかいを窮屈にさせるためのものでもなく、人間が「人のため」「世の中のため」に心の向きを整えていくための指針になる存在なのかもしれません。

 

そして、その心の向きこそが「誠」の心と言えるのではないでしょうか。

誠一つが天の理

 おさしづで諭されていますが、天の理っていうのは「天に通じる」ってことだと思うし、それってつまり親神様が喜ぶ心づかいであり、「かしもの・かりもの」というルールで最大限に自由でいられる心づかいっていうことになるんですかね。

 

 

ルールが分かれば世界は広がる

勉強会の動画を振り返りながら、この記事を書いているんすが、なんとなくボクも教理の関係性が見えかけてきている気がします。面白いっすね。

 

 ただ、改めて感じるのは、教理を正しく理解したからと言って人間として進化していけるかっていうのは、また別問題だよねっていうことです。

 

教理を学ぶって言うのは、スポーツでいうところのルールを学ぶのに似ています。

今年、日本でラグビーW杯が開催されますが、ラグビーほどルールが難しい競技はないんじゃないでしょうか。

 

ルールが分からないと、はっきり言ってみていても全然面白くないですよね。

でもルールがわかるとめちゃくちゃ面白くなる。

 

だからと言って、ルールをしっかり覚えたからと言って、ラグビーが急に上手くなる訳ではないですよね。

 

そんな感じなのかなって思います。(そんな感じなの?)

 

でも、どんな分野でもルールは知らないより知ってる方が、何かと楽しめるんじゃないかなって思います。

では!今回はこの辺で!

 

今日も一日陽気ぐらし!