【コロンビアの日々】人見知りが異国で友達を作る方法

コロンビア

どうも、コムヨシです。

以前の記事で、ボクがコロンビアに居た頃、大学へ通っていた話をちょろっと書きました。

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約1年間通ったその大学で色んな友達が出来ました。今回は、どうやって友達を作ったのか、その時の話を少し詳しく書いてみようと思います。

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ハベリアーナ大学の語学学校

ボクが1年間遊びに通っていた大学であるバージェ大学は国立で、国内でも有名(らしい)な大学です。最近天理大学と提携を結んだらしく、交換留学も行われているようです。

実はそのバージェ大学に通う前に、別の大学へも通っていました。

ハベリアーナ大学です。ここは確か私立で、かなり裕福な方々が通っていた印象があります。

ハベリアーナ大学では、大学内の語学学校へ通っていました。そこはそこで楽しかったんです。友達もできましたし。

ただ、ちょっと不満だったというか、面白くなかったのは、語学学校なのでコロンビア人の友達ができなかったことなんです。スペイン語を学びにくるコロンビア人がいるわけないですから、当たり前です。

そう、ボクはコロンビア人の友達が欲しかったんです。だってせっかくコロンビアに来たんだもん。

語学学校でのクラスメートはアメリカ人が多かったですね。あとは、オーストラリア、スウェーデンの人なんかもいました。

学校が終わってからみんなでランチとかの約束をしてたんですが、ボクは行けませんでした。仲間はずれにされたわけじゃないですよ!

その大学からボクが住んでいた教会がとても近かったのと、当時の教会の体制として勝手に外食することは御法度だったから。教会で用意してくれている日本食の昼食を食べなければいけなかったんです。

せめて学校が遠ければ、何かしら理由をつけれたんだろうけど、距離にして200メートルくらいなので、言い訳ができなかったんですね。そして本当に真面目だったボク。

さらにその時のクラスメートって全員英語が話せたから、授業以外はみんな英語で話しやがるし、全然会話についていけないから結局行かなかったかもしんないんだけど。

語学学校では、最初は初級のクラスに入れてもらったんだけど、あまりにも初級すぎたので、途中から中級に入れてもらいました。

グンッとレベルが上がって大変でしたが、張り合いがあってとても楽しいクラスでした。

初級のクラスの先生は天理教の信者さんでとても優しい先生で、とにかくボクのことを気にかけてくれてフォローしてくれました。

中級のクラスでは、大学に在学中の生徒だったと思いますが、とてもフレッシュなコロンビア人男性が先生でした。

その先生は、ボクがコロンビアに行ってから最初に知り合った、天理教とも関係ない正に現地人でした。

彼もボクに興味を持ってくれて教会にも来てくれました。

どうやってそういう流れになったのかは正直覚えていませんw

ただ、当時は陽気伝道師になるための修行でコロンビアに渡航していたので、少しでも天理教というものを伝えたいという一心で接していたんだと思います。

中南米の多くの国はカトリック教徒で、若い人も信仰に対してとても積極的です。それでいて、異文化に対してとても理解があります。

「どんな教えなんだい?」

「どんな神様なんだい?」

という質問をどんどん投げかけてくれます。

もちろん私のスペイン語力では何も伝えられなかったのですが、それでも一生懸命心をこちらに寄せてくれました。

語学学校自体がたしか3ヶ月だけの契約だったので、彼との時間はそれくらいだったんですが、ボクにとっては生涯忘れられないコロンビア人の一人です。名前は全く覚えていませんが。

語学学校は、3ヶ月がワンクールみたいな感じで、終わってもまだ勉強したい人は契約を更新して再び3ヶ月勉強するというシステムでした。

本当は契約を更新する予定だったんですが、前述の通り、コロンビア人の友達が欲しかったのと、地元のスペイン語に触れたいというボクのわがままで、バージェ大学に通わせてもらうことになりました。

バージェ大学でのハンパない注目度

バージェ大学も教会からさほど遠い訳ではないですが、歩いて通える距離ではなかったので、(そもそも歩くというのがかなり危険)自転車を買って通学することになりました。自転車で10分かかるかかからないかくらいの距離だったように思います。

それでも、基本的に外出は禁止されていたので、緊張しながら通学していたのを覚えています。

というのも、当時はまだまだゲリラが活発な時代で、日本の企業の社長が誘拐されて殺されてしまったり、教会に隣接した建物に住んでいるマフィアと警察の大闘争があったりと、緊迫感がすごい時期だったんです。

また、当時はイラク戦争が世界的に注目を集めていましたが、コロンビアでも死者数がイラク戦争の死者数を遥かに上回っていたといいます。

そんな時に、ボクはコロンビアにいたんですね。よく行ったもんです。

コロンビア人の友達が欲しいという願望があっての通学でしたが、そういった時代背景もあったので、正直コロンビア人を信用していいものなのかという不安もありました。

 下ネタは世界共通言語

いよいよバージェ大学での授業が始まりました。

一番最初に受けた講義は確か「TEORIA DE LA HISTORIA」だっと思います。

「歴史の理論」とでも訳すのでしょうか。

なんでこんなのを選択したんでしょう。本当に馬鹿ですよね。

聞き取れる単語が一個もありませんでした。

教授がおじいちゃんだったこともあり、発音もよく聞き取れなくて、完全にマイッチングでした。

そして講義を諦めました。

でも面白いこともあったんですよ。

そもそも日本人が珍しすぎて、クラスのみんなが授業どころじゃないんですよね。先生もやたらボクのことチラチラ見てましたもん。そりゃ見るよね。

隣に座った2人組の友人アルベルトグスターボが、やたら話しかけてくれました。

「〜は日本語でなんて言うんだ?」

「自慰の仕方はどうやるんだ?」

「自慰は世界共通なんだな!」

とか、かなりエキサイティングしちゃいました。

この時確信したことは、男はどこの国でもバカで、下ねたが大好きっていうことでした。

グスターボとは、よく遊びました。

日本の文化に興味があったらしく、図書館に連れてかれてアジアの美術関連の本を見せられて、

「これは日本か?」

「じゃあこれは日本か?」

「これも日本か?」

ていうのをひたすら繰り返したり、忍者について説明を求められたり。

ボクも一生懸命答えてはみるんですが、やっぱり上手く説明できなくて、でも心は一生懸命こちらに向けてくれる。それがなんだか逆に申し訳ないみたいな感じにもなりました。

おかげでスペイン語を上達したい!って思うモチベーションにもつながりました。

サッカーに言葉はいらない

彼とはよくサッカーもしました。

中南米はたいていそうですが、コロンビアもサッカー王国です。広い大学の敷地内にはいくつもグラウンドがあって、その全てにサッカーゴールがあります。

サークル的な活動でサッカーをしていたり、プロを目指す様なチームがやっていたり、そこかしこでサッカーの試合をみかけました。

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ボクもサッカーが好きだったので、一緒に混ぜてもらってよくサッカーをしました。当たり前ですが、サッカーのルールって世界共通なので、言葉がいらないんですね。

サッカーやるたびに友達が増えました。サッカーやっててよかったなーって思えた瞬間でした。

ただ、やっぱり講義にはどうしてもついて行けなかったので、そのクラスに行くことも減り、仲良くしてくれたアルベルトやグスターボとは自然と会わなくなりました。携帯電話もなかったので連絡もとれませんでした。

ドーニャ・テレサとの出会い

他にもいくつか講義を選択していましたが、どれも全くついて行けなかったので、クラスに入りづらくなり、大学へ行っても授業は受けず、自転車で構内をプラプラするようになりました。

大きな体育館の前を通りかかると、入り口に売店があったので、ジュースでも買おうと思いフラッと寄ってみたんです。

そこの売店にいたおばちゃんこそが、後にボクに色々な友人を紹介してくれた大切な友人であるドーニャ・テレサです。

THE コロンビアのおばちゃん という風貌で、体格はしっかりして陽気な明るい、全てを包み込む優しさを兼ね備えた最高のアミーゴ(正確にはアミーガ)なんです。

彼女との出会いがなければ、その後のボクのコロンビアライフは全く違うものになっていたでしょう。

今回はこれまで!

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