天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著

どうも、疾風怒濤のコムヨシです。

連載「疾風怒濤の時代」の続きです。

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天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著
どうも、疾風怒濤のコムヨシです。 この「疾風怒濤」という名著をご存じない方がかなりいらっしゃるので、文字おこしがてらブロ...
天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著
どうも、疾風怒濤のコムヨシです。 連載中の「疾風怒濤の時代」のパート2をお送りします。 パート1をまだ読んでいない方は ...

それでは、パート3いってみましょう。

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十、〝一六(いちろく)もの〟と青年

大正というのは、人類が初めて世界的な規模で戦争を経験した時代である。大正三年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパを主戦場にして人間の間に憎悪と荒廃をもたらし、とどまるところを知らなかった。

大正六年三月、ロシアに革命が起こり、皇帝は幽閉された。マルクス共産主義思想は、生前彼が最も嫌っていたロシアの国に、初めて現実的な力として定着する第一義を踏み出した。

翌七年、西部戦線にも異常が起こり、八月には、さしものドイツ軍も総退却を始めた。ドイツ国内にも反乱が起こり、間もなく皇帝はオランダに亡命。ここに、ロシア・ドイツという二つの帝国の解体と、十二月には、長い大戦も連合軍の勝利のうち幕を閉じた。今後の世界はどう動くのか、それは誰にも予測がつかなかった。

日本はこの大戦で、ほとんど労することなくうまい汁を吸った。しかしこの甘い夢が、やがて次の破滅的な戦争へ日本を駆り立てるもとになるのである。七年の八月には、米騒動という一種の革命前夜を思わせる大事件が起こった。

こうした激動の時期にあって、天理教の中にようやく三十年祭後の沈滞を打ち破る、新しい芽が生まれようとしていた。大正七年四月、二代真柱様が天理中学校に入学したことがその最初の息吹である。そしてこの年の十月二十五日、天理教青年会が創設された。

ところで青年会の創設は、すでに明治四十三年に発足していた婦人会に比べると、十年も遅れている。大正七年というと、教会ができてから三十年以上にもなる。この間に青年がいなかったわけではない。無気力で何もしなかったわけではなく、むしろ、地方の青年会活動は相当活発な時期があった。ただ、松村吉太郎氏の言葉を借りると、「始アッテ終ガナイ」という状態の繰り返しであったために、統合された青年会は誕生しなかったのである。

明治三十一年六月三日の本部青年会に関するおさしづによると、青年会の創設までには年限がかかる、という意味のお言葉がある。また、なかなか容易にはできないけれども、できたら大きな力になるとも教えられている。ここから考えると、青年会の発足が遅れたのは、神意によるお図らいであったことが分かる。同時に、青年会をつくることは必要であるが、「台無しに働いてはならん」とも言われている。台というのは心である。とすれば、心さえできればいつでも青年会はできるが、その心は容易にできるものではないということであろう。その点からすると、青年自体に何かその原因たるべきものがあったのだ、と言わなければならぬであろう。

大体、当時の天理教の実態は、老荘年の人の手に完全に握られていて、青年の意見などはほとんど取り上げられることがなかった。これらの人は、財産をささげて久しい困苦に耐えぬき、弾圧の波をくぐり抜けて教会制度の根底を築き上げた、いわゆる筋金入りの人たちであった。そこには、明治という時代からくる封建的な気質や、初代特有のあくの強さというものがあった。また、次第に教会をむしばみつつあった物質への傾斜や情実、あるいは陋習(ろうしゅう)ともいわれるべきものもあったであろうが、信仰年限と実績とうい点において、青年はとても頭が上がらなかった。

初代の信仰に比べると、二代の青年の信仰は、いわば根のない信仰であった。たすけられた喜びや、人だすけの苦労、深いさんげもなかった。しかし、古い人に対する反発心だけはあって、ともすればそれは、教会制度に対する批判という形で現れることが多かった。信仰に対する内的な必然性が乏しいだけに、社会の新しい思想に影響されることも多かった。元気はあっても、それはしばしば勝手気ままな方向に暴走しがちであった。また、学問を修めた青年も出てきたが、信仰の世界にあっては法学士や文学士という肩書きで人は動くものではなかった。

そうした青年の心情に深い理解をもって、その善導に最も心を傾けられたのは、初代真柱様であった。そして実際、その温情によって多くの青年が、道の上のようぼくとして生まれ替わっていったのである。初代真柱様が、当時の青年をどう見ておられたか、一例としてこんな話しがある。

あるとき初代真柱様が、船場大教会の新築奉告祭に臨まれたが、当時青年であった喜多秀太郎氏が、一年志願の兵役に行くことを願ったところ、「見合わせておけ」ということであったので、秀太郎氏は内心甚だ不満であった。すると初代真柱様は、随行の本部員に向かって「本部員は世継ぎではない。一名一人の積んだ効能の理で後が継がれるのや。自分が道を通った以上、後継者を仕込んで道の役に立つようにせねばならぬ」と話されてから、「喜多の秀さんと桝井の安さんと、増野の道さんの三人は、こりゃ〝一六もの〟だ。親の仕込み次第で悪ともなれば善ともなる」と諭された。

その席には、桝井伊三郎、増野正兵衛、喜多治郎吉、それに梅谷四郎兵衛氏らがいたが、いずれも恐縮して頭を上げる者はいなかったという。「一六もの」というのは、振ってみて、さいころの目が一と出るか、対の六と出るか、どちらになるか分からないという意味であろう。道の上に働こうか、それとも外へ飛び出そうか、いずれにしても一筋心に成り切っていないのが青年の通弊(つうへい)であるということでもあろう。当時の秀太郎氏の心境が、まさにその通りであった。氏は、この話で悟るところがあって心を取り直したのであるが、秀太郎と同じく一六ものといわれた増野道興氏に至っては、心の揺れ方がさらに極端な青年時代を送ったのである。それが、初代真柱様の薫陶を受けて三年間青年勤めをまっとうし、信仰の復活の道をたどり、やがて大胆に神一条の世界へ歩みを進めていったのである。

大正七年の青年会創設に際しては、この喜多氏と増井氏、それに中山為信氏が初の青年会理事に任命されたが、この時期が初代真柱様の五年祭にあたることを振り返ると、青年会を育てたのは初代真柱様であったことがよく分かる。しかしその前には、青年自体の心の条件があって、いわゆる一六ものから道のものへなることが必要であったであろうし、それがおさしづに示されたところでもあったであろう。

十一、青年会の課題

「始アッテ終ガナイ」と松村吉太郎氏を嘆かせた青年会活動の中で、最も持久力を示したのは大阪青年会であった。これは明治四十五年に始まり、大正八年に発展的解散をするまで続き、相当な成果を上げた。この時代の天理教は、ある意味においては、大阪を中心として動いていた。その主宰は増野道興氏で、発起人として、宮田佐蔵、長谷川理一氏らがあった。

大阪青年会は、初めは教務支庁を会場として講演会を開き、その後は芦津と船場大教会とを交互に会場としたが、会を重ねるうちに大阪の名物となり、会場はいつも溢れる程の盛況を見せた。神戸や京都辺りから、この日を待ちかねてはせ参じる人もあった。これは、青年の生の信仰体験をそのまま聴衆にぶつけるという方針が当たったこともあるが、一面、当時の人がいかにこうした自由な講演会を待ち望み、教理に飢えていたかを物語るものでもあった。

しかし一方で一部の古い人はあくまで道の布教は講演などではなく、個人布教にあるという信念をもって譲らなかったので、どうしても溝があることは免れなかった。

これに対して、学生を主体とする東京青年会は、明治四十一年に始まった。大阪が振興体験と教理の真実性を尊重するのに対して、東京は社会的な関心が強く、新しい思想に対決しようという態度が強かった。そしてこれらの人は、『焰(ほむら)の嵐』(後に『教えの光』と改題)という同人誌によって、まず文章面から活動を起こした。

大正六年には、東京の学生が雑誌『三才』を創刊した。同人は、山澤(中山)為信、諸井慶五郎、村田(堀越)儀郎氏らであった。これらの人は、本部あるいは大教会の子弟が主であって、いずれは教団の指導者となるべき立場の人たちであった。いずれにしても当時の人は、大阪のようによく講演して臆するところがなく、また大胆に革新的な意見を発表して屈しなかった。これに対して、大正七年にはすでに本部員に任ぜられていた増野道興氏は、次のような意見を持っていた。

「現在の青年諸君の信仰を大観しますと、次第に信仰が薄弱になってきたように思うのであります。何事も真剣になって、神様に御奉公という心持ちがなくなってきたように思われます。これでは本教将来のために大いに愁えなけれななりません。近年、信仰の衰退とともに、青年尾思想が信仰を離れて、社会的の標準によって何事もする傾向が現れてきました。これは一見甚だ良いようにでありますが、神意をもって生活の標準にする信仰生活とは、ほとんど矛盾するものであります」

しかし氏は一面、天理教がこのように推移してゆくのも、いわば必然的な歩みであると認識していた。今までの人格中心的な生き方から教理中心へ変わることは、時代の動きとしてやむを得ないと考えていたのである。つまり、今までのように不思議なたすけをあげるような人がだんだん少なくなって、代わりに知的な傾向が現れてくることは仕方がないと思っていたのである。

増野氏の考え方は、当時の本部青年会取締である松村吉太郎氏らに通ずるものがあったようである。これらの人は、青年会は発展せしめなければならぬという責任は十分感じていたが、まだそれほど心ができていないばかりでなく、青年の思想の向かうところが、はなはだ危険であるとさえ感じていた。まずくすると、新旧思想の衝突という時代をまねくこともおそれていた。しかし、初代の課題と二代の課題は、やはり時代によってちがうのである。それに、成長してきた青年の存在というものは、もはや無視できない勢力であった。いずれにしても、こういう形で旬がきたとの判断であったろうか、これらの青年取締から青年会の創立がすすめられ、真柱のお許しを得て発足する運びとなったのである。

青年会が誕生したことは、天理教の中で、初代と二代が手をたずさえて進む体制ができたということであった。この出来事は、予想以上の新風をもたらした。青年は、活動の舞台が与えられた喜びで勇み立った。

十二、天理教校の発展

大正九年一月、若き本部員増野道興氏は天理教校長に任ぜられた。天理教校は、それまで山澤摂行者が校長であったが、その頃の別科生は一期二、三百人にすぎなかった。それが増野氏の時代になって激増し、おぢばが別科生の波に埋まるという盛況になったのである。

増野氏が校長に任ぜられた六年間に、合計三万三百七十八人という別科生が、氏の息吹のもとに育ったことになる。また氏の別科生に対する講話がまとめられ、『講壇より』とか『教館の日』という本となって道友社から出版され、それが記録破りに売れていったのである。その影響のもとに、多くの人が四十年祭の奉仕に従事し、布教に挺身(ていしん)したのであるから、四十年祭に関する限り増野氏の影響というものは誠に計り難いものがある。

このように別科生が急増したのは、何といっても四十年祭という旬の動きによるものではあるが、増野氏自身の努力による面が多分にあったことは疑う余地もない。では、なぜそのように別科生が増え、また卒業生の多くが勇んで布教に従事するに至ったのか。そこでどんな教理が説かれたのか。この問題は、どうしても見逃せない点である。

この頃の記録によると、別科生は年間を通じて一万人前後がピークであった。それでもこの時代の別科は、現在の修養科と違って六ヶ月を期間とし、年二回の入学であった。当時の教会数と比較すると、やはり大した数であったと言わねばならない。

さらに、四十年祭頃の教会長、教師の状態について、大正九年には教師の数は約二万七千ぐらいであった。それが大正十五年には倍の五万四千になっているのであるが、その特徴を挙げてみると、大正九年には男の教師のほうがはるかに多く、二万七千の中で女の教師はわずか千三百くらいにすぎなかった。男二十人に女一人くらいだったのである。それが大正十五年には、女の教師が一万一千以上になり、男五人に女一人の割合になったのであるから、四十年祭活動の期間を通じて天理教全体としては一つの体質の変化が起こったと言える。

ところで天理教校は、布教師や教師の養成を主要な目的としている教学施設である。天理教が発展するかしないかは、布教師や教師の双肩にある以上、これらの人がどんな信仰を持っているかということは、極めて重大である。その天理教校の教育方針に対して、増野氏はかねてから一つの不満を持っていた。それは何かというと、教師の資格を取ることを主にして、信仰面の開発が従になっているのではないかということであった。そこで校長就任を機にして、その内容を一変せしめることを図ったのである。

増野氏はかねてから、おぢばと三島は違うということをよく言っていた。心がなかったならば、建物や町並みが目に映るだけであって。それでは単に三島にやって来たにすぎない。おぢばに帰り、おぢばの理を受けるためには、心の目が開かれていなければならない。この観点に立って氏は、就任早々「心霊の開発」ということを教育方針としたのである。

そのためには教校のみならず、別科生の起臥(きが)する詰所も、霊地にふさわしい雰囲気を持つ必要がある。そこで氏は、まず詰所主任を招いて趣旨を説明し、その協力を求めた。しかる後に、教校の改心に取りかかった。それによって教校は、従来の古神道的な色彩が一掃されて、道のようぼくを養成するにふさわしい雰囲気と内容を持った学校になったのである。

建設の裏には必ず破壊がある。巨大なビルを建てようとすれば、群小の住居は非情にこわさなければならない。天理教における破壊というのは、常に人間思案、人間の常識、あるいは形式的な信仰の破壊を意味する。人間思案が破壊された後に、初めて神一条の世界が心に映り、建設されてくるのである。教祖の一生は、言うなれば神一条の建設のために徹底的な人間思案の破壊に従事されたひながたであった。それと同じように増野氏は、教校というものは、常識を破壊するところであり、しかる後に各自が自ら悟ってゆくべきものであると考えた。

それは、ソクラテス的方法を連想させるものがある。ソクラテスは、「自分は教師ではなく産婆である」と説いたが、それは、心理は各自が悟るべきものであり、各自はそれを成し得るものを内に持っている。ただしそのためには、常識を破壊しなければならない。常識を破壊した後、初めて心理は生まれてくる。自分はその手伝いをするだけであって、自分は教師ではないというのであった。

増野氏は、信仰というものは教育によってできるものではないと考えていた。教理は教えられるものかもしれないが、そんな教理は教えられるものかもしれないが、そんな教理では人は決して動くものでないということも知っていた。人格を通じて流れてくる教理にして、初めて人の心を神の方へ向けさせ、そこに不思議なたすけも起こってくる。その人格の根本を成すものは何か。それは誠真実に他ならない。増野氏の教育方針の根本は誠真実ということであり、その方法はまず常識の破壊をということであり、それもできるだけ徹底するほうが良いというところにあった。

十三、破壊と建設

ところで増野氏は、決して雄弁な人ではなかった。素面(しらふ)で話すときは、むしろ口ごもりがちであった。どちらかというと、酒が入っているほうが滑らかであった。しかしその一言一句は、ことごとく胸の底から生まれてきたもので、いっぺんに心を決めさせる力を持っていた。

「ひのきしん」という課目が正科として取り入れられたのは、増野氏が初めて校長になって指導した第二十四期からである。これに対して多少面白くないと感じた者もいたらしい。あるとき氏はこう言った。

「お前たち、ひのきしんしたくなかったらしなくてもかまわぬが、その後お前たちがどうなるか考えてみろ」

「お前たちは、土持ちしたらひのきしんで、それでいんねんが切れると思っているが、そんなら土方は毎日いんねんが切れていることになるな」

こんな調子で、生徒の常識、固定観念をかき回し、混乱に落し入れ、そこで各自に考えさせた。また考えさせる力を持っていた。教理を決して説明しなかったし結論を言わなかった。そこで生徒はいつも黙って考え込んで、休憩時間になってもたばこを吸うのを忘れる者が少なくなかった。

しかしこんなことは、要するに方法にすぎない。ただともかく氏は、常識や人間思案に覆われた人間の心の茂みの中を分け入り、土足でズカズカとその中に芦を踏み入れようとしていたのである。道は真剣勝負であり、体裁も何も要らないというのがその信念であった。人間思案を破壊すれば、そこに真実に触れてくるものがある。では真実に触れたとき、人間はどうなるか。

「そのとき人間は、怒るか、泣くか、笑うか、三つのうち一つだ。これ以外は皆うそだ」

実際増野氏は、人を怒らせ泣かすことの多かった人であったかもしれない。しかしそれでも恐れずに、頭ではなく心に向かって常に勝負を挑んだ。

氏に向かってある人がこう言った。

「先生のように、やることなすことすべて当たるのなら、相場師になったら良かったですな」

そのとき氏は胸を張ってうそぶいた。

「なあに、俺は人間を相手に相場を張っているのだ」と。

しかし、こんなところに氏の教育の秘密があったわけではない。信仰の世界にそんな秘密などない。もしあるとすれば、別科第二十四期生を送り出した際、次のように述べたところにあるのかもしれない。

「……心霊の開発ということのみを目的としては、大きな燃えるような信仰が生まれてこないことを実地の上から知ることができた。それで今度は、できるならば今一歩進めて、一才を神様にお任せ申して、神様によって教育していただこうと思うのである。これは、ちょっと考えると甚だ無責任のようであるが、自己というものの意義を真実に自覚した方々は、私の申すことは十分理解していただけると思う……」

この「一切を神様にお任せ申す」という信仰の中に、実は氏の面目があったと見るべきである。しかしこれには、多少の解説がいるかもしれない。例を挙げていうと、こういうことがあった。

第二十五期生に対して、氏はあるときこう言った。

「二十四期では、在学中に三分の一くらいが身上を頂いた。今度は二十五期だが、お前たちはこれでいくと半分は身上になるだろうな」

そして、あっけに取られている生徒に、なおもこう続けた。

「しかし、お前たちは別にびくびくしなくてもいいし、勝手なことをしてもよい。俺は監督なんかしない。ほったらかす。神様が監督してくださるだけだ。しかし、もし俺が本当に誠真実になれば、お前たちは片っ端から、皆バタバタと倒れてしまうな」

氏は信じていたのである。人間が真にさんげに徹し、真実の心定めをすれば、その心に必ず喜びが湧く。喜びが湧くということは、神様にその心を受け取ってもらった証拠である。神様に受け取ってもらえると次に何が起こるかというと、必ず困難が起きてくるのである。それが、神様の近づいてこられるしるしだと。

困難というのは、人間にとって身上事情を意味する。すでに「一切を神様にお任せ申した」以上は、氏は生徒に何も要求しなかった。ただ責任者である自分が、真実を供えるだけであった。それは、生徒に代わってするものであったに違いない。すると神様は必ず生徒に身上のしるしを付けて仕込んでくださる。単なる人間から、神のようぼくとして生まれ替わるよう急き込んでくださる。だから自分としては、そのように神様が働いてくださるよう、真実さえ尽くしていけばそれで良いのだ。  おそらくこれが底流にあった信仰信念であったに違いない。そのためには、容易ならぬ心定めがあったと想像されるのであるが、それはもはや、詮索すべきものではないであろう。

信念がそこにある以上、氏の態度は極めて単純であった。何を生徒に対して話そうとしたのか。それは一つしかなかった。「誠真実になれ」ただこれだけであった。

氏は、頼るべきものは心一つであるということに徹底していた。形の上の教会というものなど信じていなかった。もとより教会の数というものも、頼るべきものではなかった。もし頼るべきものがあるとするならば、名称の理の芯である教会長の心一つ、布教師、ようぼくのお心一つだけであった。その心が人間思案に覆われ、物質に追い回され、真実を喪失しているならば、それは教会でもなければ、布教師でもない。もとより神様の働きがあろうはずがない。言わんや神一条であるはずもない。その心一つを起こし、その心を真実にすること、それだけが信仰の目的であり、これが四十年祭の本当のささげ物であらねばならぬと信じていたのである。

だから氏は別科生に向かっても、やたらに布教せよというようなことを口にしなかった。それは、当時の気風が布教へと向かっていたから、そうした反論的な態度になったとも思われるのであるが、本当は誠真実の心をつくることを忘れて布教してみたところで、信仰の世界においては何もできるものではないと信じていたからである。

外なるものから内なるものへ  そうした方向の転換の中に、氏は「よなおり(世直り)」の意味を見いだそうとしていた。「よなおり」とは、世の中の客観的状態が立て替わるのではなく、一人ひとりの心が立て替わるということであり、この意味で「よなおり」とは、実は「天理教のよなおり」であった。

「よなおり」したらそこに神一条の世界が開け、神意が悟れ、理の働きを如実に受けることができる。そして再び不思議なたすけも続出するであろう。そのために、人間として成すべきことは、ただ一つ、誠真実の心をつくることだけである。これが氏の主眼とした、

  いかにして神の働きを得るか  

ということの内容であった。

そのために破壊すべきもの、それと戦わねばならぬものとして、二つのものを見いだしていた。一つは、あまりに教会中心的、形式的に堕しつつあった当時の思潮と、もう一つはあまりに理知的、客観的に流れようとしている教理研究の態度であった。

前者に対しては教会の行き詰まり、困窮を神のてびきとして、その中からぢば中心主義の神意を悟らしめ、また人間思案の枠から引っ張り出して再び混沌の中に投げ込むこと。すなわち、安定した教会生活、教会思想から、どう転ぶか分からない不安の中へ人々を投げ込むことであった。

後者に対しては、教理はあくまで主観的なものであり、真実の心をつくるためのものであるということを強調し、教理即実行の世界へ突入せしめようとした。

誠真実の、神に対する関係が神一条ということであると考えていた氏は、神一条の実現を四十年祭の目的としていたことが分かるのである。そしてそれは、氏にとっては復元であったに違いない。

この実現のためには人間思案および新しい思潮との対決が必要であった。この対決とその推移が、実は四十年祭の主要テーマであったといって差し支えはないであろう。

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