瀬戸内寂聴の寂庵のあり方こそ、これからの天理教の教会の見本になるかもしれないと思った話

考え方

どうも、コムヨシです。

昨日何気なくテレビを見ていたら「深いい話」で瀬戸内寂聴さんが出演されていました。

ボクの中での瀬戸内寂聴さんのイメージは

  • 90過ぎてもやたら元気
  • 講演会はとにかく人気
  • 作家?
  • 人間の寿命は120歳って言ってたらしい
  • 若い女の子が寂庵で働いている

といったところです。

「すごい人」っていうイメージはあったけど、あまり共感は持てなかったので、特に調べようともしてきませんでした。

でも、昨日の番組をみてとても衝撃的だったことがあったので、そのことを今回はお伝えしようと思います。

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小説家に専念するために出家した

らしいです。

Wikipediaで調べてみたんですが、出家の理由は記されていませんでした。

検索をかけてみましたが、基本的に出家の理由は謎とされているみたいでした。

なぜ昨日の番組で「小説家に専念するために出家した」と言い切れたのかは不明ですが、ボクはその理由が一番しっくりきます。

出家すると聞くと、世俗から離れ自分自身と向き合うみたいなイメージがあります。殆どの方はそうなのかもしれません。

でも寂聴さんは、自分が自分のやりたいことをやり切るための最良のスタイルを選択したということなのではないでしょうか。

実は、出家する以前は僧侶になるために修道院に行かれたそうなんです。でも、子供を残して不倫したという経歴が理由で修道院から拒否されていたらしいんです。

その後お寺にお願いにいくのですが、ことごとく断られたそうです。

ボクの勝手な想像ですが、最初に修道院に行っていたということを考えると、別に出家ということにこだわりがあったわけではないように思います。

お酒を飲んだり、肉を食いまくってることを考えても、仏の道に生きるために出家していないということが窺い知れます。

寂庵の会計は常に赤字

一番衝撃的だったのは、寂庵(寂聴さんが代表の寺院)の会計が赤字だということです。

とても不思議でした。

寂聴さんはとても豪華な暮らしをしています。

たくさん稼いでいるからこそ、そんな暮らしができるわけですが、つまりはメインの収入はお寺の収入ではないということなんですね。

寂聴さんは小説家です。

寂聴さん的には、本業は小説家であり、生き方のベースが仏の道といったところでしょうか。

寂聴さんのWikipediaページでは

金を取る宗教は偽物」を自らの持論としている。

と、記されています。

寂庵は、会費とかお供えはまったくないのだそうです。(この辺の詳しい表現はちょっと忘れたのでニュアンスがちょっと違うかもしれません)

月に一回開催される法話の会では1人1000円の参加料を徴収するようですが、激安ですし、定員が150名なので、その収入だけではあのような豪華な暮らしは出来ないこがわかります。

ボクは、そのスタイルがとても心地よく感じました。

お金をとらないというのが素晴らしいのではなく、寂聴さんは寺院を経営するのが目的ではなく、自分が自分らしく楽しく生きることを一番大切にされているように思えたんです。

寂聴さんからしたら、好きな時に好きなように小説が書ければいい。好きな時に好きな物を好きなだけ食べれればいい。

一見自分勝手な生き方に見えるかもしれませんが、人に尽くし人の役に立とうという精神がなければ、どんなジャンルに生きても成功することはできないでしょう。

寂聴さんが、自分らしいスタイルを手に入れているということは、自分勝手な生き方ではなく、自分らしく人の役にたつ生き方を貫いていることの証ではないかと思うんです。

教会というカタチにがんじがらめにされてしまっている天理教に未来はあるのか

別席者や修養科生を誕生させることが尊いことに変わりはないのだけど、それが目的になってしまっているのは否定できない事実です。

そこが目的になってしまうから、「布教!布教!」ってなってしまう。

天理教の目的は布教ではなく、陽気ぐらしです。

まずは自分がしっかりと陽気ぐらしをすることが何よりも優先すべきことでしょう。その陽気ぐらしという生き方があまりにもボヤケているから、みんなとっつきにくいんだろうと思います。

だから、「とりあえず布教しよう!」っていうことになってしまう。

ボクは、今回瀬戸内寂聴さんの生き方や、寺院の経営方針に少し触れただけですが、教会のあるべき姿がぼんやりとイメージできた気がします。

天理教を仕事にするんじゃなくて、自分の好きなことを仕事にして、生き方のベースが天理の教えですっていうのが理想だと思います。

一般的な信者さんだったら、そういう人って結構いるんじゃないかなって思うんです。

でも、それをやってる教会長って圧倒的に少ないと思うんです。

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出来ないんじゃなくて、やりずらい雰囲気があるっていうのが本音でしょう。

教会長が二足のわらじはいかがなものか

という雰囲気です。

働いている教会長さんはたくさんいます。

でもそれは、自分らしく好きなことをして生きるっていうことではなくて、働かないと教会を維持できないからなんです。

たしかに教会ってお金がかかります。

維持管理費だけなら、そこまでお金はいらないと思います。

結局、「お供え」なんですね。

強制ではない、「強制的なお供え」が必要になります。一般的な言い方では上納金っていうんでしょうか。

お供えが悪って言うんじゃないんです。お金は心を表すのに一番てっとり早い方法だからカタチとしては問題ない。

ボクが教会側として一番しんどいなって思うのは、二足のわらじをはかない以上は、信者さんからのお供えで生活しなければならないこと。

多いから助かるとか、少ないから大変とかっていう次元の話ではなく、シンプルに「重い」んです。

大切なお供え、貴重なお供えで生活させてもらっている以上は、信者さんが納得するような使い方を心がけなければなりません。頂く者として当然です。

でも、例えばですけど、いい車に乗りたいし、好きな服を買ってオシャレしたり、家族でちょっと豪華な外食をしたり、旅行に出かけたり。。。

「好きな時に好きなこと」っていうのが、しずらい。

でも、寂聴さんみたいな経営方針だったり稼ぎ方なら、ボクはもっと教会長もその家族も自由にのびのびと楽しく信仰を続けられるんじゃないかなって思ったんです。

これからの教会長のあるべき姿を、瀬戸内寂聴さんの生き方を通して見いだせた気がします。

もちろん、布教が大好きで、それによって人間関係を築いて行ける人は全然そのスタイルでいいと思います。そういう教会も大事。

でも、ボクは出来ないし、出来ない人のほうが圧倒的に多いから、行き詰まってる教会が急増しているんだと思います。

色んなスタイルをもった教会がたくさん出来れば、これから天理教と接点を持つ人達にとっても選択肢が広がるし、紹介もしやすい。

天理教は万能であることが求められるキライがあるけど、やってるのが人間である以上はどうしたって得意不得意や、好き嫌いがでるもの。それでいいじゃないですか。

教会長こそ、好きなことして人の役にたちましょう

好きなこと、得意なことが誰かの役にたつってとても素敵なことです。

そこから自然に人間関係が築かれますし、天理教がベースにあれば自ずと、おぢばへお誘いすることも自然な流れでできるでしょう。

躍起になって布教に出なくても、アナタがアナタらしく生きるだけで誰かが助かり、おぢばへと導かれるのではないでしょうか。

そんな生き方の先に天理教の教会は存在意義を自ずと発揮してくれると信じてやみません。

今日も一日陽気ぐらし!

コメント

  1. るい より:

    すごく共感します。私も後継者ですが、まさしく人助けともう一足の草鞋が近いならいいのではと考え、医療の資格を取りました。玄関のチャイムを鳴らして戸別訪問するだけが布教ではなく、人を助ける過程で匂いがかかるのも布教のひとつではないかと考えています。

  2. 天理教ファン より:

    「そうだよなぁ」と思います。教会はいまや、お供えをたくさんしてくれる人や、信者として使える人を大切にする。それはすごく感じています。私は、初代でまだ、手踊りや鳴物ができないんです。お供えもたくさんは出来ない。でも神様の方を真っ直ぐに向いていきたい。しかし、教会は役に立つ人を大切にする傾向を感じるんです。そして、一番に楽しそうではない。私は天理教ファンだけど、信者という枠になると楽しめなくなりそうで…
    神様は、どう感じているのでしょうか。

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