「ドーナツの穴」と「効能の理」の関係を洗い出してみた|第1回コムヨシ布教所オンライン教理勉強会まとめ④

ドーナッツの穴は、ドーナッツの一部であるか否か

ども!コムヨシです!

いきなりとんでもない質問をなげかけましたが、アナタはどう思いますか?

ドーナッツの穴って、空洞なんだからドーナッツとは無関係なんでしょうか。

でも、穴があいているからこそ、ボクたちはそれをドーナッツだと認識することができる、という見方もあります。

そんなボクは、ミスタードーナッツのエンゼルクリームという穴がないドーナッツが大好きです。

さて。

前回の記事では、「第1回オンライン勉強会」の質疑応答から発生した「よふぼくの定義」についてまとめました。

え?よふぼくって「おさづけの理拝戴者」のことじゃないの!?|第1回コムヨシ布教所オンライン教理勉強会まとめ③
ども!コムヨシです。前回と、前々回の記事で、コムヨシ布教所の「オンライン教理勉強会」の第1回目の内容をお伝えしました...

今回も質疑応答関連の内容です。

テーマは

おさづけは取次ぐ人のための効能か、取次がれる人のための効能か

です。

なんとなくドーナッツの話に似ていますね。

ではいってみましょう!

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「おさづけ」と「効能の理」

第1回目の勉強会では「おかきさげは教理の要点集」だっていうことを中心に学んだんですが、その後の質疑応答でこんな質問がでました。

効能の理ってなんなの?

実にシンプルで奥深い質問です。

これに対するヒサマツくんの回答は、

  • 効能=効き目(いわゆる奇跡、御守護的な)
  • 効き目を目の当たりにすると→「スゲー!」ってなる
  • 「スゲー!」がきっかけとなって神様を信じる

つまり、

神という存在を分からせるためのきっかけじゃね?、という説明でした。

もっというと、

「神様を信じる→天理的な生き方をする」つまり、それってつまり、「よふぼくになる」っていうことなので、その「よふぼく」が心得といてほしい内容が「おかきさげ」なんですよ、っていうことなんだそうです。

取り次ぐ側が神を体感するという側面

ヒサマツくんからの回答を聞いた上で、質問者さんは、

さづけって、取次いでもらう側が「スゲー!」ってなって、神様を信じるためのものだっていう話でしたが、

それを聞いて感じたのは、

受ける側じゃなくて、取次ぐ側なきがしてきたんです。

っていうぶっ飛びな表現。

というのも、この質問者さんはおさづけを取次ぐなかで自分自身が、「スゲー!」っていう体感をしていた最中だったという背景がありました。

「だから今は「おかきさげ」を読む事に抵抗がないんです。」

というお話も印象的でした。(抵抗あったんですね、っていう)

おさづけって「取次がれる側のためにある」って思うのが当たり前だと思ってましたが、よくよく考えてみれば確かに色々な見方や感じ方ができそうですよね。

こういった議論は、コムヨシ布教所のサロン内のスレッドでも活発に議論されていたテーマなんです。ちょっとだけ紹介すると

気休め程度の「おさづけ」をしたことって、ありますか?

「おさづけ」はこの道を信仰していく上で必要だと、思う理由はなんですか?

おさづけは天理教信者にとっての保険のような存在になってるかも。
とりあえずおさづけしとけば務めを果たしたことになる的な。おつとめも似たような感じになってるかも。

おさづけは
双方(する側としてもらう側)
のたすかりのための道具、的な認識をしてます。

ねぇねぇ「おさづけ」って、なんで「おさづけ」って言うの?

おさづけをしたことがあるなら、その時、おさづけがなければどうしてたと思いますか?

効かないと思ってる人には効かないし、それを効くと感じられる人にしか見えない感覚ってある気がするのです。
「効く効かない」の議論から
「じゃあどうすれば効くのか」っていうのを考える人が増えていくのでは?

おさづけの理を拝戴していない者は、おさづけを取りつぐことは出来ない。
では、どんなに誠真実で願い祈っても、神さまは聞いては(ご守護)くれないのでしょうか?

ちょっとだけと言いながら、めちゃくちゃ紹介しちゃいましたが数あるスレッドの中でもとりわけ活発な議論がされています。

ぜひアナタの意見や考え方も聞かせてもらいたいものです。

まとめ

ドーナッツの穴は、ドーナッツの一部であるか否か

という問題提起と、

おさづけは、取次がれる側のためか取次ぐ側のためか

知らねーよ

っていう答えが多分正解になります。

ただボクは、エンゼルクリームが大好きです。

今日も一日陽気ぐらし!

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